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十字架の聖パウロ証聖者  St. Paulus a Cruce C.  御受難会創立者     記念日 4月 28日



 十字架の聖パウロは西暦1694年、北イタリアのジェノバに程近いオヴァダという小さい都市に生まれた。ようやく物心つく頃から既に信心も深く、犠牲心に富み、世の常の子供等とは選を異にしていた。それかあらぬか、この子には早くから聖母マリアの特別な御保護が見られ、ある日川端で遊んでいた彼が、誤って河中に落ち、すんでの事に溺死しようとした時、突然聖母が現れて造作もなく救い出して下さったなどという話もある。従ってパウロが天の御母に対し一方ならぬ深い愛を持ち、燃え立つ報恩感謝の念を抱いた事もまた言うまでもない。そしてその冥々の御指導の下に、彼は主の御苦難をしばしば黙想して、尊さ御いたわしさに耐えられず、自らも主にあやかるべく様々の苦行を行い、毎金曜日には苦肝の入った酢を飲んだりした。かくパウロは超自然的には聖マリアに守られ、この世では敬虔な両親の躾を受け、心も清く身も清く生い立ったが、20歳になった頃主の為に生命を献げたい一念から、兵士となって折しもトルコと戦いつつあった祖国イタリア軍に投じた。しかし途中天主の啓示を受けて、かような現世の戦争よりも、むしろ超自然界の霊的戦いに参加するこそ、自分の本来の使命であることを悟り、軍籍を辞して故郷に帰ったのである。

 それからパウロは同市数人と共にアルジェンタロ山という人跡稀な深山に入り、祈りと黙想の聖い生活を始めたが、司教が世の冷淡な信者の心に再び熱烈な信仰の火を灯すべく、パウロ等の積極的活動を望んで已まないので、彼もその気になり、まずローマに行ってベネディクト14世教皇から叙階の秘跡を受ける一方、その許しを得て「御受難会」という一修道会を創立し、さきの自分の同志達をこれに入会させることとした。

 彼が聖職者となって再びアルジェンタロ山に帰ってきた頃のことである。聖母マリアが又も彼に現れて、黒の粗服の胸部に心臓が描かれ、その中に十字架とイエズスの御名とが記されているものをお示しになった。パウロはそれを見て、新修道会の会服をかく定めよとの思し召しであると悟った。なるほど会の目的は主として会員自身イエズスの御苦難を黙想すると共に、一般信者にもその玄義を深く味わせる所にあるのであるから、これほど適当な会服は他にないに相違ない。そこで彼は正式にそれを自分の会の会服と定めたのであった。なおこの会は聖母の御悲しみに対する尊敬を深めることもあわせて目的としているのである。それはさておき、聖パウロはその熱烈な祈りと苦行とにより、冷淡な信者や罪人をどれほど沢山改心させたか解らない。またその会員の努力により、悲しみの聖母に対する信心も驚くほど速く世に広まったが、そのため思いがけぬ恵みを蒙った人々もどれほどあったか知れない。聖パウロはイエズスの御苦難を黙想する度に、いつも胸が主への愛熱に燃え切れるよう感ぜぬことはなかった。そしてその為かついには二本の肋骨が表にあらわれるに至ったという。彼はなお天主から、未来の事や他人の心中を見抜く力をも賜っていた。

 御受難修道会の発展は実に目覚ましいばかりであった。数年後には女子の為にもその修道会が創立された。十字架の聖パウロは総長としてこれらの会員を前後四十年の長きに渡って指導し、己が善徳を以て彼等の鑑となり、高齢に達してから自分の預言した1775年10月18日に平和な死を遂げて永福の国に入ったのであった。

教訓

生きとし生ける人、誰か生活に多生の十字架を感ぜぬ者があろう。その十字架の苦しみを忍び易からしめる最良の途は、十字架の聖パウロに倣ってしばしば主の御苦難を黙想することである。しかもこれは救霊の聖寵を蒙る上にも極めて効果が多い。されば我等は出来得る限り毎日、寸暇を割いてその黙想につとめるがよい。